昭和54年07月13日 朝の御理解
御理解 第23節
『氏子が神と仲ようする信心ぞ。神を恐れるようにすると信心にならぬ。神に近寄るようにせよ。」
神様を恐れるようにしてはならぬ。知って向かえば命を取り、知らずに向こうても目を取ると言う様な、神様を有難いと言う事ではなくて怖い神様。そこで障らぬ神に祟りなしと言う様なそのう風が私共日本人、これは日本だけじゃないでしょうけれども、そういう神様と私共というものをそんな風な見方をしておる。するからには一心になって、いわゆる罰が当たらぬようにしなければならない。というて一生懸命になれないから、もう障らぬ神に祟りなしと言う様なあのう観念がね、私共の心の中にある訳です。
教祖の神様は、ここん所をやっぱり教祖の神様とてもそういうお考えがおありになった事は間違がないですね。いわゆる豹尾金神に無礼があるとか、又はその金神様に向かって実意の限りをたて貫かれたとか、いわゆる普請造作をなさるのに、いけないと言われればもう言われる通りにして、いよいよ自分のお住いから小屋の方へいっぺん家移りしておいて、私のお家はこれが私のお家だと言う様にね、まぁいうならそういう方便的な手立てをなさった時代もやっぱあるわけです。
そしてそのいわゆるそれがどういう神様であろうがです、人の命を自由自在になさったり、それこそ知らずに向こうても目を取るという程しの、目を下さったり開けて下さったりする事の出来る程しの神様ならば、また命を無い命を下さる事も出来るだろう。無い目もまた下さる事も、出来る神様に違いないと気付かれたんですね。そして只お粗末御無礼があっての事であるから、その実意の限りを尽くしてね、どうぞ神様お向きを変えて下されという姿勢で神様へ向かわれたのです。神様その当時はいわゆる金神様です。
そりゃ金神様も普通の神様も、いうなら仏様も、そういう一視同仁の見方を、皆んながしてます。神社なんかでもやっぱそうです。いうならば不浄がある時には、神様に対して御無礼になる。だから怪我やらなんかをすると、だから不浄がかかっっとる時にゃお宮さんにはお参り出来ない、それが崇か神様であれば崇神様である程、いうなら当時の国弊大社と言われるような、この高良山神社なんかの場合は特にそれが、なら厳しゅう言われたんです、ね。
そういう神に対する観念というものが信心、教祖様の実意丁寧の御信心によってね、もうそれこそ愛の神としてのですかね、ただ氏子可愛ゆいという一念だけの神であるという神様が、教祖様の信心によって現われ出られたわけであります。どうぞお向きを変えて下されいと言う生き方であった。そこでその教祖の実意丁寧な信心に神様もほとほと感心なされて、もうお前ばかりは試しようも無いという程しに、御信任を厚うされて現われた神様は、それこそ慈顔にあふれるばかりの神様であったという事である。
これに二代金光様、四神様のお言葉の中に「罰を当てる暇があるなら おかげをやるわい」と教えられたということです。この神様は罰を当てる暇があるなら、おかげやるわいち。そういう神様だと言う事。というてなら糞も味噌も一緒にせろという事ではないのです。最近やはりあのういうならば、コントロールという事がいわれますけれども、とう言うのはそう言う事ではないんですよね。
いよいよ神様と仲ようする信心。それをいうならば合楽の場合は、もうまぁいうならば心憎いまでに、合楽世界の顕現を説く所にですね、神と仲良うする信心というものがね、そのう情念の上に形の上にね、密接になってくる、いうならば説き方をしてあるのが合楽理念です。
昨日十二日の美登里会でございました。この前の美登里会の時に、合楽でいわゆる合楽理念、又はその中に説かれてある所の、宗教以前の宗教。前代未聞の宗教であると。そういうまぁ特別な合楽で教導を受ける時に説く、まぁ合楽でなからなければ表現しないような表現をして、教えを頂いておるが、本当に合楽理念というのが素晴らしいという事を、自ら体験して、いわゆる実験実証して、そのことをです、一つレポートにしてこの次には皆さん出されるようにというておりました。
もう私は昨日、もう先生方も一緒に驚きましたけども、はぁもうやっぱり美登里会の皆さんがね、まぁ合楽の芯になられるような方達ばっかりですけれども、ほらぁもう一人一人見事なこの発表でした。もう私は驚きました。正教先生がえらい感心しとりましたから、今度このこの方達のを毎月新聞に掲載したらどうだろう。いうならもう一人、二人書いてもらうと十二ケ月の一年。いうなら今回顧シリーズというのが出て、もう丁度二年になるから、もうぼちぼち替えんならんという時でしたから。
なんかそう言う風に替えたらどうだろうかと、一人一人が新聞に載せておかしくない素晴らしい記事になるだろうという、しかも個性のある表現で合楽を縦横無尽に説いておられるのに、私は驚きました。本当に合楽の信心とは合楽理念とはとね、どういう所がいうならば宗教以前の宗教なのか、どういう所がね、いうならば十全の教えといわれるのはどういうわけに十全の教えなのか、と言う様な事をですね、もう一人ひとりの方がもう見事に説いておられるのです。
もう殆どが各々の入信そして体験。それを通して合楽理念を説いておられます。もう本当にやっぱり結局、そしてこのう後で話しました事でしたけれども、年期というものが素晴らしいですね。一つのキャリアを持っておるから、これが言えれる書けれるんだという事です。しかも相当長い、いうならば文章なんです。どの方の一人のでもこりゃちょっとおかしかねというのが、一つも無かったのに又驚きでした。神ながらでした。恐らく次からこの方達の一人一人を、あのう合楽だよりに掲載する事になるでしょう。
その中にです、善導寺の原さんの発表を聞きました。その中に先日から近所の方が、 そのうどうでもそこを普請をなさらなければならない事になっておるのです。けれども、始めなさらんからどう言う訳ですかと聞いた。ある所にお参りしたら、何か二年間は待たなければ出けんち言われたち。もう本当に不自由な事ですね。金光様にお参りすると、こうですがと説明したけれども、もうガンとして聞こうともなされなかった。もうとにかく不自由な事に慣れきっておられるという表現でした。
私は素晴らしい事だと思うです。私共が信心さして頂いて有難いと思う。なら私共の周辺には信心の無い人達が、いうならば殆どであるね。その殆どの人がです、神様のいうならば氏子に間違いないないんだけれども、親と子の関係も知らん、天地の御恩徳も知らず訳も分からずに、例えばこの世は苦の世苦の世界だ、苦の世だと言う事をです、もう当り前の事だとしておられる、頑固ないわゆる頑迷なまでのその思い込みがあるという事ですから、成る程どんなに素晴らしい合楽示現活動に参画して、合楽示現をしようとしてもです、なかなかもって出けんなぁという事をです。
その一言からで本当に感じましたです。慣れておられるという事ですもん。そしてなら原さんあなたが言われる、そんなあなたあぁ調子のええ事ばっかりというふうにしか聞いていないという事。成る程これからの合楽、いうなら示現活動に参画させてもろうて、その御用に使うて頂くけれども、こういう頑迷な人達に、いうならば分かってもらおうというのだから、大変な熱意と又はそれこそ噛んで含めて教えられるだけの内容というものと同時に、それに対する信心体験というものを持っておらなければとても出来る事ではないなぁ、本当に至難な技だと、私は昨日原さんの一語の中から感じたんです。
もうやっぱ仏様がお伺いに行ったら、二年待てち言しゃったけんで、まぁ言わしゃったけん、まぁ言わっしゃった事をしてから罰かぶっちゃならんから、まぁ二年待とうとこういうのです。世の難儀というものにいうならばです、それこそ皆さんの中の発表の中に、もうとにかくもうそれこそ、嬉しゅう楽しゅう有り難う、しかも愉快にまで、お道の信心が頂ける、いうならば自分の信心体験をです、又本当に嬉しゅう楽しゅう信心の稽古をなさっておられる方ばかりなんですもんね、美登里会の方達の場合。
その九名の方々の発表を聞かせて頂いてです、私が言うておる事は過言じゃないなぁと、とても信心というものは、それこそ先日の御理解じゃないけれども、いばらの道を辿らねばならない様に観念してきたわけですよね、お互いが。それをそうではない分かろうとと本気になれば、子供でも分からせて頂く程しに容易う、しかも人間の誰でもが助かられる道をです、十全の道を説いてある。その道を私共辿ろうとすると、先ず有り難うなり嬉しゅうなり、しかも愉快にまでなり高められて行く、信心生活が出けれるんだというても、今までのが「信心ちゃ難かしか、私だんじゃ出けん暇もなか金もなか」。
そりゃ私どんじゃでけん。もうそういう難しいもんだ。何の稽古をするでも、稽古という事においては変わりはないけれども、信心の場合は、稽古すりゃ有り難う楽しゅうなるだけじゃなくてです、いうなら人間の幸せの条件がだんだん足ろうてくる程しのもの。そしてだんだん分かる事は、これがあの世まで持って行けるもんだと言う様な、一つの見解というものが開けてくる。そこでなら難儀をしている、不自由な生活をしておる方たちに言うて聞かせてもです。
もう不自由であるという事、この世は苦の世苦の世界だと、お釈迦様が言うちあるとじゃけんで、そげん一辺にちいう、ちゃんと決めちしめちからねそれから抜け出ろうとしない。頑迷と言えば頑迷。もう慣れておられると言えば慣れておられる。これは私が霊様を拝むとその通りです。もう何じゃえかんじゃえ言うなら分からんごとあるぐじゃくじゃしたね、いうならばまぁいうならば何でしょうか。
あのうどぶの中で、こうボウフラがこううようよしているでしょう。と同じ様な霊が殆どだと言う事です。けれどもそれが当たり前のように思ってるです。開眼が出けてない。信心を知らない。縋ると言う事が分からない。いうならば地獄に行ったその地獄の苦しみというものがです、それが当り前のように思うておる霊がどれ位あるやら分からん。それを救おう助けようというのですから、なかなか難しい事だという事。
先日昨日一昨日でしたか、林さんとこのお母さんの大塚のおばちゃんが亡くなられて 五十日祭でしたか、ここでちょうど梅山先生が当番でしたから、梅山先生が奉仕しました。そして神様から次々といろんな事を頂いとる中にです、そのう「姿形は違えども」というてねその何か歌の文句を頂いた。そして紅白の幔幕が張ってあって、まぁいうならば桜の花見のような風景の中でです、まぁ音頭でも踊っておるような感じで、もうとにかく嬉しゅう楽しゅう信心の稽古をさせて頂いとると。
いうなら調子に乗って合楽の信心を頂いて合楽理念の何たるかは分かっていなかったけれども、あちらへ行って、合楽の世界に住まわせて頂いて、嬉しゅう楽しゅう、姿形というのは肉体のあったり時代、魂の世界という事でしょう。もう魂の世界に入ったら、もうその事だけに専念する。しかも嬉しゅう楽しゅう音頭もんでも踊るように、花見の春の三月、いうならば春の三月うららかな日にですね、花見しながらね、踊りを踊っておるような調子で信心の稽古をしておるという事を伝えたという事です。
だからそれは、おばあちゃんは信心さして頂いてその事が分かっておる。それが分からない者は、もうそれこそ何と申しましょうかね、永遠に助かる事の出けないような所に入っていっても、それがいうならば助かろうともしない、それが当り前のように。私共の周辺には、そういう頑迷な人ばっかりなんです。こういう中にでも喜びの中にでも喜びが頂けるという道をいうならば体得しようとしない。もうその難儀に慣れ切っておられる人ばっかりだという事。
それをなら示現していこうというのですから、それを神様と仲ようしてゆく道を教えてやろうというのですから、やっぱりお互いが本気でその事に取り組まなければ、なかなかの事だという事が分かります。私共はいよいよ以て、いうならばこの神様は恐れ、とかおののくような、いうならば神様でない。というてですいうならばね、有難いというその向こうにはね、又怖い神様だとね。
これは母親が優しいばっかりであるように、父親はね分からん事ばっかり言うたりしたりするならば、いうなら腕振り上げてでも、叩いてでも分からせようとする働きがあるように、お父さんは怖いお母さんは優しい。そういう意味での怖いはありますよね。それは親ならばこそでありね。だから先に申しましたように味噌と糞を一緒にしてはいけないという事です。いくらコントロールしておるといった所で、味噌と糞がコントロールできるはずがない。
まぁそういう所をふんまえ分からせて頂いて、いよいよ神と仲良うする、いうなら信心。いよいよ合楽世界を目指しての信心。私共のいうならば観念の中に神様とは罰をあてなさる神様のような、だから障らぬ神に祟りなしと言った様な観念が、信心のない人達の中にはもうそれが殆どだという事。そういう中に入って神と仲良うする合楽世界に住めば、こういう素晴らしいものが生み出されて来るんだというものを、いよいよ実験実証していかなければならんと思うですね。 どうぞ。